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2007年10月26日 (金)

再々就職

再々就職
すったもんだの末に昭和53年の9月から三本松吾割安で、お世話に成る事にしたのですが、寝泊まりしてる所は相変わらず店の二階で亡くなった桑島モトムが住んでた頃は窓ガラスも入ってなかったらしいのですが、私の時はかろうじて窓ガラスは入ってましたから倉庫の中で回りは食材や食器なとの山とは言え快適な毎日を送ってました。
何より仕事で疲れるし、翌日に声が出ない事が日常茶飯事ですから、いかに没頭してたかが良くお分かりだと思います。
メリヤスやパンスト、ランジェリーなどを売ってるよりも自分に合ってましたから、4年7ヶ月もの間を働きましたし、今も同じ仕事をしてるのですから本当に天職だったのでしょうね!!
9月末には二階の倉庫での暮らしから家賃3500円のアパートに引っ越したのですがトイレは昔風で共同、木造の二階建ての二階でひと部屋でしたが生活には不自由なく送れたように覚えてます。
三本松吾割安での最初の給料は11万で保険も税金も引かれないので丸進時代に比べると約二倍になってました。
今の時代に換算すると30万円以上の給料をもらってたのと同じぐらいで、ラーメンが150円だったと思うので古き良き時代でした。

思い出が有りすぎて、書けないのですが、とにかく無茶苦茶に楽しくて、すべての事に夢中になった時期で、人生を生きて行く上で仕事でも人間形成でも、あらゆる事を学だと思います。
三本松吾割安を出てから26年になりますが、今でも夢に出て来て、必ず働いてて最近は今の立場で居ながら週末だけ三本松吾割安で働くと言う夢なんです。
私は三本松吾割安から抜け出す事は出来ないのでしょうね!!

何ヶ月ぶりにブログを書きまくってますが、24日から東京〜甲府、甲府から塩尻経由で名古屋、名古屋〜広島と移動して、今日の昼に広島港から高速艇(マリンジェット、写真)で松山観光港に向かい、今は松山発最終便の高松行きバスの中なんです。
移動に時間がかかるものですから携帯でブログを書きまくった次第です。
笑っちゃいますね、でも色々と昔を思い出して参考になりましたよ。
では、また〜

2007年10月25日 (木)

再就職

当てもなく丸進を辞める事にしたものの、内心「どうしよう!?」と葛藤してたところに取引先の専務から「うちに来ないか?」と声を掛けていただき、何も決めてなかったですから、何となく行こうかなと思って会社の先輩に相談したら「止めとけ」と反対されました。その先輩は「お前は、あの店では腐ってしまう」と言うのです。
そして、別のところを紹介してやると言われ、紹介先はどこかを尋ねると「ビッグジョン高松支社」や〜 これからはメーカーが元気やでの一言が迷ってた私をその気にさせて、取引先の専務には断わりの挨拶をして、ビッグジョンの面接を受け、ほとんど就職は決まってましたから顔合わせ的な感じの面接だったように記憶してます。
面接の中で話題はひとつで、いつから出勤出来るかの話しで、7月末で丸進を辞めるのだったら、8月1日から来なさいと言われのですが、私は9月1日を主張してビッグジョン側は早く来て欲しいようでしたが、ここのところが私らしく、一歩も引かず、9月1日に決めたのでした。
結果的には、この一ヶ月の攻防が私の人生を決定したと思います。
一ヶ月にこだわった訳は、ただ遊びたかっただけです。
10才ぐらいから働いてましたから働く事に対しては余裕があったのですし、少しの不安はありましたが自分を見失う事はなかったからでした。
三本松吾割安の桑島モトムの事故死で三本松吾割安にバイトで入ったのが、たしか、8月の10日過ぎでした。あまりにも三本松吾割安での仕事が自分に合ってましたから、もし、ビッグジョンに8月1日から行ってたら三本松吾割安ではバイトはやってないでしょう。人の人生って、ちょっとした事で変わって行くのを体感した出来事でした。
この時期の体験は、今の私の原点になってて、社員からの相談や経営に悩んだ時は必ず思い起こして、あの頃に帰ると必ず答えが出て来るのです。

結局、ビッグジョンには3日しか行かず、会社の三階にある寮に布団を置いたままでビッグジョン再就職は終わってしまい、三本松吾割安への再々就職が決まった事で、自分の人生を賭けれる仕事に出会ったのです。
馬鹿でしょう!

運動会

このところのブログは思い出をたどりながら書いてましたが、今回は10月22日に行なった「第一回 突飛な運動会」の報告を記しておきます。
そもそも何で運動会かと言うと、我社の三宮のひら井の店長&支配人が会議の終了間際に「野球大会がしたいのですが」ってな感じで話しだしたので、経緯を話しみろと言うと、会議に参加してた者達で「野球が出来たら楽しいだろうな〜」と話し合ったようで、なら、「TOPPIさんに話してみよう」と言う事になり、恐る恐る話し出したみたいでした。
一年前からの飲酒運転の取締り強化で売上も落ち込みっぱなしだし、店舗も増えて、社内の親睦も出来てなかったので「それ、やろうぜ〜全店休みにしてやろう」で会議の参加者に確認したら、当たり前ですが反対はゼロで決まり。
「お前、実行委員長な〜」で、役割分担も完了。
ついでに、参加しやすいように社員は有給、バイトは二時間の時給発生する事にして、運動会はソフトボールにする事で準備スタートになり、当日を迎えたのです。
参加者は100名にもおよび、店舗別ではなくランダムに6チームを作り、二つのブロックにわけ、1位同士が決勝を行なう試合方法にして、私は勝手にどのチームにでも参加できると言う事になってたのです。
私も何日も前から楽しみで楽しみで、トレーニングをしながら、ヒットはこんな風にとか、外野の頭の上を超えるヒットは何本とか、そらもう子供の頃の遠足前日ですよ!!しかし、現実はそう甘く有りませんでした。

Toppi3

ヒットはエラー気味のヒットで打球が上がったと思ったらピッチャーフライばかりで、ガックリ!
でも、本当、楽しかったですし、大声を出してのヤジの連発、多分と言うか間違いなく一番楽しんだのは私だったと思います。
社員の為の運動会でなく、私の為の運動会だったみたいでした。
すみません。

今日で運動会が終わって4日目ですが、オシリは痛いし、歩く事もままならず、靴下やズボンすら、まだ、はけません。

我社のみんな、ありがとう

会社を辞めた

会社を辞めた
入社式の失敗や二年目に後輩達と荷造りや配達など雑用の仕事をする羽目になったりと、馬鹿な毎日を送ってた私ですが、この頃の経験はとても有意義な経験でした。
例えば、フェアレディSR311に乗ってる先輩が居て、後に私もSR311を15年ほど乗ることになるのですが、この先輩との出会いで、暴走族の車じゃなくて、愛する車って何か?! 車の楽しさって何だろうを教わったのです。
フェアレディに乗ってる仲間が何人か居て、毎日のように仲間が集まってはフェアレディの話しを夜中まで話すのが当たり前で、時には何日も掛けてツーリングに出掛けたりと、それまでに私が知ってた車好きとは、あきらかに違ってました。
私も当然、フェアレディが欲しいと思うようになるのですが、月給65000円ぐらいで、フェアレディは安くて150万、程度の良いのになると200万以上するのですから、給料の40倍もする車は買えっこありません。
だから、5月のゴールデンウィークに行なうツーリング旅行に助手席に乗っけてもらい、毎年、付いて行きました。
北九州から中部地方の長野、静岡まで車の旅を経験したので、当時を思い出すたびに楽しかったし、フェアレディと言う憧れもあったので、20才前後の暴走族精神から大人の仲間の付き合いや本当の楽しさを発見したように思います。

仲間を見つけることが出来たのですが、仕事は中々上手く行きませんでした。
入社して直ぐの仕事は高松市内の取引先へのルートセールスと新人なので雑用なんです、当たり前ですけど。
最初の雑用は三越から返品されたランジェリーの仕分けでした。四畳半ぐらいの部屋で朝から晩まで山のようなブラジャーやショーツとの格闘をしてました。
暴走族がランジェリーと戦うとは思っても見ませんでした。

そんな仕事を一年半近く続けたのでしたが、色々と考えて見ても自分が一生を掛けてやる仕事とは思えなくて、満濃には爺ちゃんやばあちゃんが居てるし、私を必死で育ててもらったのに自分が命を掛けることが出来ないのでは続けて行けてないと辞める決心をして、会社に報告を済ませ、この頃は香川県の東を担当してたので、お世話になった取引先にも挨拶を済ませて、最後のルートセールスを終えて、今でも覚えていますが、夜の8時過ぎに会社に帰って、駐車場にセールス用の車を入れて事務所で日報を書いて、事務所のスタッフは皆さん帰社されてて社内には常務しか残ってなかったので、その日報を常務のところに持って行き、最後の勤務だったので挨拶も合わせてしたのですが、驚くことに常務は一言も言わずに私を無視してるではありませんか!!、ハチャメチャでしたが、会社の為に頑張りましたし、自分にとっては楽しくて最高の会社でしたから、この常務の態度は理解できず、涙を流しながら会社を出たのを覚えています。
この経験が今の私の原点です。
誰でも働いてる時間が長かろが短かかろうが関係なく一生懸命に働いてるものです。
辞めると言う事は何か他人には分からない理由があるのであって、会社はそこを理解しなくてはなりません。
だから、辞めやすい会社作り、辞める奴に優しい会社作りをしてるのです。

写真は徳島の紺屋町にある「割烹 とと喝」です。
魚料理が中心で、特に名物「鯛めし」が最高に美味いし、親父の手作り干物は絶品でした。 ちなみに「鯛めし」は40分ほど時間が必要ですから早めに注文を

追伸
後に常務も丸進を辞められたそうです。

就職

就職
長らくご無沙汰してまして申し訳ありません。
身体的にも頭の中的にもバタバタでブログに取り組めなかったのです。
しかしながら、少しではありますが落ち着いて来ましたので、また書き始めますから宜しくお願いします。

色々とありながらも就職は高松の株式会社丸進(繊維問屋)に決まり、卒業出来ないままなので、学校の担任と生活指導の先生に確認してみると、帰って来た返事が「とりあえず行っとけ」だったので、卒業した仲間達と遊んでばかりの毎日を送ってた、ある日、株式会社丸進から呼び出しの通知が来てたので、何だろう!!と思いながら、前日は鳴門まで走り(三菱のギャランGTO)に行こうと思ってたので、朝まで遊んで、「そのまま丸進に行けばいいや!」ぐらいの軽い気持でいましたから始末が悪いのです。呑気と言うかアホですよ。
九時の集合だったように記憶してるのですが、行って見ると、玄関付近には紅白の幕は掛ってるし、同期の奴らはスーツか学生服を着てるしで、ビックリ!!
私はと言うと暴走帰りで髪はパーマがかかってて長髪のボサボサ、Gパンにヨレヨレのシャツそれにジャッケトは何とも言えぬ派手な物で、その上、寝てない、ヒゲは伸びっぱなし、そんな姿で入社式に挑んだのですから大変。
満濃に帰って着替える時間もないし、ちなみに高松から満濃を往復したら二時間弱は掛ります。
同期の新入社員と一緒に支持されるままに会場に入ると、先輩社員達が待ち構えてるではありませんか、拍手で向かえられ、ふて腐れて座ってると、名前を呼ばれ、「はい」と返事をするのがやっとでした。
悪夢の入社式も終わり、翌日からは髪も切り、スーツに身を包み、態度は前日のそれとは180度は違う好青年ですから、会社は二度目のビックリで、同期の連中が倉庫で荷造りをしてるのに入社から一ヶ月が過ぎた頃には高松市内の営業に出てましたから、その変貌ぶりが分かっていただけるかと思います!
しかし、もともとの中身が変わってないのですから信頼される訳ありません。
仕事の成績は残すのですが例の態度が駄目なんです。結局、一年後には同期がスーツで営業に出かける姿を一年後輩の新入社員と一緒に倉庫の作業をしながら見送ってました。
今、思い返して見ても素質は持ってるのに生かしてないと言うか生意気な馬鹿でした。
恥ずかしいですね。
ただ、この丸進時代が現在の私に影響をしてますし、素晴らしい経験をさせていただきましたから丸進は私の仕事上の古里なんです。
当時の中村会長が言ってた言葉に「人間、ど天井になったらあかん。ワシは昔、伊予の郡中? 今の伊予市まで自転車にやなぎゴウリを積んでエビのようになって仕事をしてた」と毎日のように話されてました。「ど天井になったあかん」は、いつも天井を高く持て、出来たと思ったら駄目だと言う意味と思います。
この言葉は丸進を一年半で辞めましたけれども、それから今日まで私を支えてくれてます。
会長、ありがとうございました!!

今回の紹介の店は、坂出市の旧国道11号線沿いで、坂出駅に向かう道と旧国道11号線の交差点から西に100㍍ほど歩いて商店街の入口辺りにある「こめや」です。
もともと米問屋をされてて、その米問屋の一部を改装して飲食店にしてるのです。
今でも米屋は隣で営業なさってますし、昔ながらの重厚な建物の中で食事が出来て最高でしたよ!
ちなみに定休日は日曜日

是非、一度寄って見ては!

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