2008年9月29日 (月)

気が付いたら

Hana
会社名を「有限会社ひらい」に決め、個人事業から法人になりました。とは言え、簿記の事など全く知りませでしたし、経理など机に向かう仕事は大嫌いな自分を知ってはいましたので、これから「どうしよう」が本心の法人化だったのです。

とは言え「やるしかありません」経理は結婚したばかりの嫁さんに押し付け、私は毎日毎日、吾割安の営業に明け暮れてました。

創業から二年で、150席の吾割安に移り、三年目に法人化を果たし、四年目に二号店の「チョモランマ」と名付けた、ネパールを意識したエスニック居酒屋を出したのですが、これが、大変!
お客様は来るのですが、売り上げにならないのです。
原因は、今なら必ずやってる事業計画ですが、21年前の29才の私(ただのイケイケ)ですから、売り上げ計画も何もありません。
ただ、店を出したいから出したのです。
店内は異様な雰囲気で、床は土、椅子はブロックの上に四角な材木を置いただけで、安定は悪いし、テーブルにいたっては、拾って来た箱とか、足場にする板を並べただけの粗末な物でした。
メイン料理はネパール料理と言うかインド料理で、カレーを中心にお茶を出すのですから客単価も低かったです。
しかしながら、お客様はビックリするぐらい来ました。
多い日には100人以上来ましたから、コンセプトは良かったのでしょう。
しかし、商売としては失敗でした!
一年足らずで、中華料理の「慶華飯店」と改めて、内装も大幅に変えて、再出発をしました。
「慶華飯店」は一年目は赤字でしたが、二年目には外国人の溜り場になり、その事が引き金で多くのお客様とスタッフに支えられて、平成13年まで営業しましたから成功だったと思います。

そうこうしているうちに『気がつけば』30才が目の前ではありませんか!!
焦りましたよ!
友達と言えば、やんちゃな頃の奴らと同業者ばかりで、会社になったからといって、上手く運営出来る訳でもありません。
自分が経営とか、未来の為の勉強をするしか生き残る道はないのです。
残念ながら、この頃の私には、向かいあった問題を解決する方法は持ち合わせて居ませんでした。
情けないけれど、仕方なかったのです。
この様な思いが、後に青年会議所に入会する事になり、現在の友達と知り合い、社業の発展につなげたのですが、この頃はただのやんちゃ坊主でした。

写真は我社のスタッフで、8月に家族と川遊びに行ってて、年齢と体力の衰えを計算に入れず、川に飛び込み、左肩を脱臼骨折し、入院先で撮った姿です。
病院で見た瞬間は、可哀そうやら可笑しいやらで、笑ってしまったのです。
結局、8月いっぱいを休みましたが、彼にとっては良い勉強になったと思ってます。

2008年9月12日 (金)

有限会社

有限会社
新しい吾割安をオープンする事が出来て、紆余曲折は有るものの、なんとか軌道に乗せようと走り回ったら、あっという間に一年が過ぎようとしていました。その頃、自分の足を見たら痩せ細り、体重計に乗ってみたら60㌔しか無いじゃありませんか、(今体重は73㌔)ビックリしました。
考えてみたら、タバコはショートホープかハイライト、家に帰ったカン入りロングピースで、二箱から三箱は吸ってましたし、ほとんど食事らしい物は取らず、味見とツマミ食いで、腹を満たしてましたから、痩せるのは当たり前です。
そこで、タバコを止めようと決めて翌日から吸うのを止めると、一ヶ月ぐらいで65㌔に戻り、食事も美味しくなり、仕事にも集中出来るようなっていましたからありがたい事でした。
ちなみに、タバコを吸い出したのは、22才ぐらいでしたから、そう長くは吸ってなかったのでしたが、やめて見てタバコを吸うと飯はマズイし、身体はだるいしで、良い事はひとつも無いと改めて思いました。 現在もタバコは吸って無いので、この時に止めてて良かったと、つくづく思います!
体調も良くなり、店は連日の大盛況で、何か次につながる事に挑戦せねばと考えて取り組む事にしました。
それは、個人事業から会社組織にすることでした。
働いてもらってるスタッフの為にも会社にしようと思い、とりあえず最初は有限会社にと考え、資本金は300万円ではじめました。
自分が働いてた頃のことですが、ローンも通りませんし、アパートを借りる事も容易ではありませんでしたので、何とか会社にしなくてはと思ってたのです。
登記は62年の3月。
これで、会社の社長です。

今回の写真は今年の7月に志度のテアトロンで、小田和正さんとスターダストレビューさんの為に食事を提供した時の絵です。
ステージ裏に店一軒分の厨房を持ち込み、小田和正さん本人やデュークの方達に食事を作ったのです。私はカレーの担当でした。
中々美味いカレーなんですよ〜
そして8月はまんのう公園で行われたモンスターバッシュにも行って食事を提供しました。
その際には、ホシザキの宮脇君を始め、多くの方に応援を頂き大変ありがとうございました。

追伸、
我社で働いてみようと思う方がいましたら会社に連絡をください。
ブログを読んで!と言って頂ければ私が面接をします。

新しい店を出すからです。
では、また!

2008年8月11日 (月)

新たな挑戦Ⅲ

新たな挑戦Ⅲ
8月10日のコメントに、山陽放送のテレビで放送された番組のなかで「お客様」と話さなくてはならないのに「お客さん」と話したところを、ご指摘頂きました。
ありがとうございます。
私の修行不足でした!
ご注意頂いた事を肝に命じ、直して行きますので見ていてください。

さて、この新しい吾割安は、1階が70席で、カウンターとテーブル席、2階は、80席の座敷になっていて、今でも営業をしており、高松の居酒屋文化に貢献したとの思いは持っています。
ただ、苦労したのはスタッフを、どのように導けば良いか分からない事でした。開店前にスタッフから「仕事が終わったら話しがあります」と言われたら、必ず「今月いっぱいで辞めます」でしたし、もっと酷いのは何の連絡もなく仕事に来なくなるのですから大変です。
店は繁盛してるのにスタッフが足りない事ばかりで、どうしたらスタッフが定着してもらえるのか悩む毎日でした!
27才の若造で、自分勝手に生きて来た私には、かなり荷の重い時期だったと思います。

写真は12000トンのケミカルタンカーの命名、浸水式で、正に今、海に入って行こうとしてる所です。
今治の友人が、先月31日に福岡県の福岡ドッグにての式典に招待していただき、このような場面に参加出来たのでした!
船名は「ドレッゲン号」で三ヶ月後には世界の海を航海するそうです。
歓迎しました。
近藤君ありがとう!

2008年8月10日 (日)

新たな挑戦Ⅱ

新たな挑戦Ⅱ
新たな挑戦とはいえ、実際には無謀な挑戦であったのです。
開業してから1年半で、資金も貯まってませんでしたし、なんと言っても12坪から80坪の広さに拡大です。席数は18席から150席の2階建てになるのですから、いかに無謀な挑戦だったかはお分かりと思います。
1年半前に友達から300万円を借りて、手作りの店とは訳が違います!
新しい店は結果的に3500万円の資金が掛りましたから、この時点での「僕がやります」は、ほんとに無謀だったのでした!
しかしながら、翌年(61年3月31日)に150席の新しい「吾割安」がオープンしたのですから、我ながら頑張りました。
資金も命がけで集めましたし、スタッフも少ない人数でしたが揃いましたので、オープン出来たのです。
このオープンまでは、日々は命がけでした。
工事が出来上がる日に工事代金の支払いがあるにもかかわらず、一ヶ月前なのに資金のメドが立ってなかったのです!
大きな問題は保証人で、満濃の爺さんでは保証人にはなれません。二人の保証人が必要で、一人は久本酒店の先代社長が引き受けてくださったのですが、もう一人が見つからないです。
計画が始まった当初は「僕がなってあげる」って方が、いたので計画を進めたのに、いざ工事が始まって、銀行との契約が近付くと連絡が取れなくなり、途方にくれる毎日が続いたのです。悩んでも仕方なくて、他の方を探してはみたのですが、3000万円の保証人を引き受けてはもらえる方を見つけられなかったのです。
悩んでいる間も工事は進んでいますし、あと二週間で完成と言うのに、保証人が見付からず、金融機関からは催促をされ、保証人が見付からないなら融資は出来ませんと言われるしで、絶対絶命のピンチで夜も眠れません。
この時に、たまたま喫茶店で新聞を読んでますと、登山家が「K2」に登るのに資金が集まらず、生命保険を自分に掛けて、受取人の覧にスポンサーの名前を書く事で資金を集めたと言う記事を見つけ、「これや」と直感して、ある方の所に生命保険の申し込み書に記入して持って行き、保証人をお願いしたのでした!
登山家は登山が失敗すると言う事は死亡するか、登山を断念する事ですし、いつも死と隣合わせですが、私は違います!
保証人を頼んだ方に「もし失敗したらどうする」と聞かれたら「死にます」と言おうと決め、生命保険の申し込み書を持って行き、この決意も伝えたら、なんと承諾してもらい、資金のメドが立ったのは工事完成二日前でした。
結果は、この時の保証人の方にも迷惑は掛けずですし、生命保険も使う事はありませんでした!
まぁ〜 命がけの挑戦でしたけど。

写真は昨日(8月9日)に生まれた「そら」ちゃんです。
私の友人で満濃時代からの同級生(ちなみに来年50才)の子供ちゃん。

可愛い「そらちゃん」元気で大きくなってください。

新たな挑戦

新たな挑戦
つい最近、テレビ局から私の取材申し込みが来て、友人でもあり我社の店を利用くださっていただいてる方の紹介だったので、快くお受けしたのです。が、いざ取材となると、これが結構プレッシャーで過去にも何度かテレビ取材は、こなした事はあったのですが、カメラが自分に向くと、喋れない物ですね!緊張でした。
取材の内容は過去の経験と今後の事であったり、今の考え方を話すのです。
そんな中、過去を思い出してると、良く悪くも、ここまで来たかと言う思いになりました。
無一文だった私が友達とスタッフの支えで、今があるのですから。

さて、昭和61年の夏頃に「仲見世」の社長から、この辺りの倉庫を店に変えて、通りを活気のある飲食街にする話しを聴いて、斜め前の倉庫が空いてて、挑戦する奴を探してると、重ねて話しを聴いた途端、「僕にやらせてください」と、何も考えずに言ってた自分がそこにいたのでした。
この事から、新たな挑戦が始まったのです。
写真の奴らは、中学校の同級生で先月の23日に、男性9名、女性3名の12名で高松の我社の店に集まり、昔話しに花を咲かせたのでした。
50才になってから、やたらと昔の友人に会う機会が増えました!
仲間って良いですね。

2008年6月29日 (日)

再会

再会
創業して25年目、実際には24年と4ヶ月になる我社の歴史の中でアルバイトの1号は片岡君(ちえ蔵)で彼とは三本松吾割安時代からの友人で、アルバイトをお願いしたのでした。
学生アルバイトは有川君が1号アルバイトで、有川君は長崎県五島列島から香川大学の経済学部にやって来た奴でした。
その後も香川大学からは、多くの学生がアルバイトとして勤めて頂き、今日に至る24年間、我社に貢献してもらってるのです。
昨日(6月28日)に、その有川と有川を紹介した福原君、6号アルバイトの松本君と再会飲み会を開催する事が出来たのでした。
有川とは確か12〜13年ぶりで、松本とは彼の結婚式以来ですから、15年ぶりに成る再会だったのです。
事の発端は福原君が高松に転勤(20年ぶり)して来たのが始まりで、互いに連絡を取り合い昨日の再会飲み会が実現しました。
松本にいたっては、一週間前に連絡先を探して、呼びかけたところ、東京で勤務してますが「調整して行きます」の返事をもらい再会する事になったのです。
会って見ると、誰もが、学生の頃の雰囲気のままで、24年前に一瞬で帰ってしまい、今の境遇や心境の話しをしても、すぐに24年前に戻ってるのに気付かず話し込んでしまってました。
私は、どうしても外せない仕事が入ってたので、21時過ぎに抜けて神戸に来ましたが、彼らはきっと夜中まで語って飲み明かしたと思います。
再会した彼らは卒業後の就職先(大企業)に今も勤めてて、それなりの悩みは持ってながらも立派な地位に就いてて、嬉しいやら頼もしいやらで、彼らの青春時代に一緒に働き語り合った事が私の喜びです。
楽しかったよ!ありがとう、有川君 福原君 松本君。

毎年この時期は取引先との業者会を開催してまして、6月24日に松山での業者会に行ったので、これは「ことり」に寄らねばと行って参りました。
最高に美味かったです。
「ことり」の鍋焼きうどんは、完璧でした。

では、また。

2008年6月19日 (木)

独立してから

独立してから
開店してからというもの、来る日も来る日もお客様で満席状態、週末ともなると、ラーメンが200〜300食ぐらい売れるのですから大変。店内は28席だけなので、表の道にビール箱を即席のテーブルと椅子にして必至で売上をしました。
田舎から出て来たばかりの突っ張り君は、元気だけが取り柄の若造でした。
経理の事も知らず、ひたすら「100円で仕入れた物を200円で売る」そして、100円の儲けと言うぐらいの知識で経営者になったのですから、知らないって言う事が怖い反面、今日に至った原因でもあると思うので、前進(前向き)する事が大切だとつくづく考えさせられます。
この開業した店は、2年間の営業で移転する事になりました。結婚もしましたし、憧れの車(ダットサンフェアレディーSR311)も手に入れましたから、夢のような時間を過ごしたのでした。

京都には20才の時に始め出かけ、その時に「愛染工房の爺ちゃん」に出会った話しは以前にも書きましたが、今も年に2〜3回は訪れてます。
そこで見つけたのが写真の「イノダコーヒー三条店」です。
店内は奥に丸いカウンターがあり、手前にテーブル席と言う配置で、最近は分からないのですが、以前は高倉健さんがさりげなく座ってる事もしばしばあったらしく、(聞いた話しですけど)健さんが座ると、スタッフが好みの新聞をそっと差し出してたそうです。
近くに本店があり、合わせて最高の喫茶です。

2008年5月25日 (日)

独立Ⅱ

独立Ⅱ
昭和59年3月1日・午後6時開店。
25才のやんちゃな若造が、ついに独立を果たしたですが、心の中では「吾割安に帰って来たって感じ」で、私は三本松吾割安を辞めたくなかったのです。
辞めたのは仕方なくで、もしも私に両親がいてたら、もう少し時間もあっただろうし、爺ちゃんと婆ちゃんの心配をする必要があったからでした。
仲間は遊び回ってますし、将来を考えなくても良かった時代だったと思いますし、もっと親方と一緒に仕事をしたかったのです。

しかし、まぁ何とか友達の応援と親方の計らいで独立出来たのでしたから良しじゃありませんか。

広告は茶色の紙にオープン日時と簡単なメニュー、それとキャッチコピーだけのシンプルなチラシを店の窓に貼り付けただけなのに、午後5時前から、一人並び二人並びと気がつけば20人ぐらいは開店を待ってたように記憶してますが、とにかく、ここでもビックリ!!
原因は当時の「三本松吾割安」の知名度です。
私は琴平満濃方面の常連客でしたし、私が働き出した頃から高松からのお客様が凄く増えてたのでありました。
この頃にナイスタウン(タウン紙)が創刊されたばかりで話題になってなのを、親方がいち早く取り入れたのです。
このナイスタウンで紹介されてから忙しくなったのを、今でも覚えてます。
吾割安ブランドの凄さにビックリしながら開店すると、たちまち満席、気がつけば営業終了の時間でしたから、ヘトヘトで声も出ないぐらいに疲れてました。
ちなみに、一番客は店の向かいの親子で、それからも良くして頂きました。
売上は確か17〜8万だったと記憶してます。

7年前に初任給6万円だった自分が一日で原価や家賃が含まれてるとは言え、20万円近くの金を手にして、一ヶ月営業すると、とんでもない金額になると言う事の現実に驚き、こんな仰天な出来事を経験したのですから大変でした。
この後の手の付けられない天狗な姿が想像出来るでしょ。

今回の紹介は鳴門うどんです。
店は徳島市末広3‐1‐53‐102
088‐625‐6647

「鳴門うどん もり」

徳島市内にありますが、完璧な鳴門うどんです。
宜しく。

2008年5月21日 (水)

独立

独立
昭和58年の2月末に三本松吾割安を辞めて、放浪に出てから2ヶ月少々で満濃町(現まんのう町)に帰ってブラブラしてるところに、フェアレディSR311って言う車を通じて知り合った先輩から連絡がありました。「JAZZ喫茶ジャンゴ」を開くから手伝ってくれと言う誘いを受け、仕事も見つかってなかったので引き受ける事にしました。この事が、それからの自分の人生を大きく変える事になったのです!
この店では、朝の7時ぐらいから夜の12時まで働いたこともありました。お客様が一人も来なかった日も時々あって、結局、翌年(昭和59年)の1月末で閉店しましたので、7ヶ月ぐらいしか営業はしてませでしたが、結婚相手もこの店で知り合いましたし、三本松吾割安では、お客様が途切れた事などなかったので、お客様の大切さも学びましたから、今の私が存在するのも「ジャンゴ」があったからだと思います。
59年の1月末で「ジャンゴ」が無くなり、仕事を探さなくてはと思ってたら、よく行ってた「Barどん底」の辻さんと横田さんから「話しがあるから来い」と言われ、行って話しを聞いてみると「お前の持っている、三本松吾割安時代の経験と能力を出せば、高松には吾割安のような店が無いから、必ず成功するので店舗を探して、開店資金は満濃に帰って農協にでも頼め」って言われたのです!
その話しを聞いた瞬間に、単純ですから「ヨシ、やろう」と決めたのでした。

翌日から不動産屋に行き、物件探しをさながら、満濃町の協栄農協に友達を頼って融資の申し込みに行ったりと人が変わったように走り回ったのでした。しかし、世の中はそんなに甘くなくて農協からは「平井さんとこには農機具代とか、かなり貸してますので融資は無理です」と断られるし、何せ、金が無いのに店を出そうとしてるのですから良い物件はありません。
手持ちの預金は4万円しかありませんでしたし、爺ちゃんや婆ちゃんが金を持ってる訳ありませから、頼めるのは友達だけでした。
直ぐに友達に連絡して「店を出そうと思うので金を貸してくれ」と頼むと50万だったら明日にでも取りに来いと返事をもらい、これで、当座の見せ金は出来たと勇気百倍で、物件探しに全力を注ぎました。
当初の出て来た物件は割烹とかうどん屋の閉めたものばかりで、ピンと来ませんでしたから不動産屋に喫茶店の閉めた物件な無いのと尋ねると、ぴったりの物件が出て来たのです! 広さは12坪で家賃は9万円と手頃な金額でしたし、何より、飲み屋街の外れという立地が素晴らしいと思い、即、手付金を入れて、それからは、中古の厨房器具を探し回り、内装の準備に取り掛かりました。
当時の友達に大工さんが居てたので、内装工事を頼みましたがエアコンなどは資金が無いので取り付けず、時期的にも冬から春に向かう3月頃がオープンになるだろうから、エアコンが必要になるのも大分先なので、その時期まで営業出来てたら儲かってるだろうと考えたのでした。ハッハッハ〜
資金は50万円では足らないので、他の友達にも頼んで結局300万円を集めましたから、今考えてもたいしたものです!それと、借りた資金の返済用に、あと数人の友達に金を借りる約束を取り付けてましたから準備万端でした。

自分で貯金してた金は東京の放浪で使い切ってましたから友達に頼っての独立でしたが、よくお金を貸してくれる友達が居てくれたもんです。
それと独立には、もう一つの目的があったのです。
三本松吾割安時代は恋愛しても、夜の仕事(水商売)と言うだけで、親に反対されて、失恋ばかりでした。今のように携帯電話がある訳じゃ有りませから、夜、相手の家に電話をすると、お父さんが出たら終わりで、数週間後には仲がおかしくなり、その後は連絡が取れ無くなり失恋です! 一度なんかは、仕事が手に付かなくなり、親方に頼んで旅に出ようとしたこともありました。
だから、現在のような株式会社にしようと考えたのは、こんな出来事や経験があったからです!
「ジャンゴ」で知り合った彼女と結婚するには経営者と言う信用が欲しかったのでした。
独立して繁盛させれば信用が出来るし、子供の頃から家族が少なかったので、自分で家族が作れると考えました。
そんな事も考えながら、準備もほぼ出来上がり、店名も「どん底」の先輩達に言われて独立しようと思ったのだから、どん底の反対で「ど天井」と決めて、三本松吾割安の親方の所に報告に行ったのです。
報告に行く途中で偶然に、現在我社の役員で私の良き友の松本実(当時20才)に遭遇して、店を出す話しをしたら「僕を使ってください」と言うので即OKで、スタッフまで整い、後は親方に報告です。
自宅に行き独立の話しをして、店名も伝えると、そんな名前は分からん、「吾割安」を名乗れと言うじゃありませんか、ビックリです!
まさか、吾割安の屋号で独立出来るなんて思ってもなかったのですから、最高です。
もう一度、吾割安で働けるなんて夢のようでした。

屋号も決まり、スタッフも出来て、満濃で爺ちゃんに準備の経過などを説明したら、オープン日は3月1日が良いと言われて、またビックリ! 一年前に来年の3月1日にしてる仕事を一生の仕事にしようと決めてましたから、不思議な運命を感じたのでした。
そして、昭和59年3月1日が来たのです。

今回の写真は広島県尾道に有る「一口(ひとくち)」です。串カツ屋で、カウンターに12〜3席があるだけの小さな店ですけど味は絶品で美味しいと言うのは、この味やなと思う店です。
尾道で「一口」と言えば誰でも知ってますから一度訪ねてください。

では、また次回。

2007年11月19日 (月)

放浪Ⅱ

放浪Ⅱ
東京での居候生活は思ったより大変で、最初に訪ねたサーフィン仲間宅は彼女と暮らしてる、いわゆる同棲生活宅に居候を決め込んで押し掛けたのでした。

では、このサーフィン宅をA宅としましょうか。
新宿をさ迷ってからA宅に着いたのが約束をしていた晩の7時頃だったと思います。
A宅は私の到着を心待ちにしてたみたいで、彼女の手料理がテーブルに並び、久々に会う仲間を持てなそうと歓迎の夕食で、知り合った経緯の話しや一緒にサーフィンに行った、千葉の房総半島での思い出、真っ白に覆われて富士山が空に浮いたように見えた茅ヶ崎のの話しで時間の経つのを忘れて語り合ったのでしたが夜中ぐらいから吐き気をもよおし、最初は酔っ払ってるからと思っていたのですが、朝になっても良くならず、夕方になっても体調の悪いままで、A宅に来てから三日目の昼になってるのに体調が快復する気配すらない状態でした。A宅に居ては迷惑になると思い、もう一人の先輩を訪ねる事にして、大きな荷物を待って体調の悪い身体でA宅を出ました。

幸いに、もう一人の先輩(B先輩)は順天堂医大の先生だったのでB先輩宅に行けば治してもらえると思って訪ねたのでした。
訪ねて見ると初めての子供さんが生まれたばかりで奥さんも慌ただしく動き回ってる感じで「まずい!」と思いながらも、この先輩に頼るしかなくて居候を決め込んだのでした。
生まれたばかりの子供さんと一緒に寝てる毎日が一ヶ月以上は続いて、良くなったと思って外出すると、また一週間近く動けなくなるのです。
今、思い出ても原因は分かりません。
B先輩宅に居候して一ヶ月ぐらいでしたか、先輩が点滴を持って帰ってくれまして、(薬はもらってたのでしたが点滴は始めてで)この点滴が効いたのか翌日から良くなりだし、何とか外出も出来るようになり、B先輩に誘われて居酒屋巡りしてアルコールも飲めるようになったのでした。
二人の先輩を訪ね歩き、特にB先輩の奥さんには、とんでもない迷惑を掛けてしまい、大変申し訳ない事しました。
その後すぐに香川に帰って、進む道を探す事にして、自分はやはり香川が合うし香川が好きやと改めて東京で感じる事が出来たのと、二人の先輩には迷惑を掛けたけど、東京での出来事で三本松時代のアカが取れ、ふっ切れたように思いました。
A先輩にもB先輩にも、後からでしたが、お礼を言って、独立した事も報告をしました。

写真は松山「サントリーバー露口」の朝子ママです。松山で一番の歴史の店で、もう少しで50周年になろうかと言う老舗のバーなので、松山に旅をしたなら必ずや寄って下さい。

つづく

放浪

放浪
結果的には一年後の昭和59年3月1日に高松市福田町にて独立を果たす事となり、三本松吾割安を辞める時に考えた「一年後にしてる仕事を一生の仕事にする」の目標通り一生を掛けて行なう仕事も見つけましたし、現実に25年近くが過ぎた現在も同じ飲食業を我行く道と歩み続けてますから、当時の決意がどれほどだったかは想像していただけると思います。
そして、三本松吾割安を昭和58年2月末で辞めて放浪の旅に出ました。
行き先は東京と決めてましたから宇高連絡船から宇野線、そして新幹線と乗り継ぎ東京に入りました。

サーフィンをしてた時に鳴門で出会った奴(すみません2才ほど先輩です)と三本松時代に知り合った先輩の二人を頼って行こうと事前に連絡はしてたのですが、そこは東京、何せ一度だけ行った事があるぐらいで右も左も分からないですし、大都会ですから大変、まず、新宿を目指して電車に乗っても人 人 人で、新宿に着いてからも知ってるのはテレビで見た事のある東口あたりだったので、アルタぐらいまで大きな荷物を持ってウロウロしても、やはり人 人 人の嵐、色々と聞いてはいましたし、自分なりに想像もしてましたが、遥かに想像を超えた人間の多さに驚き、ここで暮らして行けるのかと不安になったのを覚えています。

歩き回ると腹も減っては来ますし、足は疲れはてて動かなくなって来て、休憩と喫茶店を見つけて、コーヒーを頼もうとメニューを見ると、700円ぐらいだったと記憶してるのですが、驚きの値段なんです。
田舎ではコーヒーは150円だったですし、ラーメンも150円でしたから、思わず、注文を止めて店を出ました。
所持金を元に考えても700円のコーヒーは飲めません。
店を出てベンチを探してもベンチなんか見当たりもしません、歩き回ったあげく、たどり着いたのは京王百貨店の地下売り場でした。
美味しそうなイチゴを売ってたので1パック買って、休憩場所など有りませんでしたので、人はいっぱい歩いてましたが、通路の柱の前に荷物を置いて、その荷物に柱に向かって腰掛け、買ってきたイチゴのパックを全部食ったのです。
美味しいのなんの忘れる事の出来ないイチゴの味でした。
柱に向かって座ると不思議に回りの歩いてる、ものすごい数の人達が気にならないのです。
私は今でも、この時の光景は鮮明に覚えていて、同じように、大変な事に巻き込まれたり、窮地に打ち当たった時は向きを変えて座り一服するようにしています。
今回の写真のおじさんは徳島の阿波踊りに行って撮った方です。
徳島の駅前に10月に「ひら井」を出店するにあたり、阿波踊りをもっと知ろうと話しを聞いたり、見に行ったりと阿波踊りの情報を集めました。
にわか阿波踊りファンですが知れば知るほど奥深い祭りだと思ってまして、これからもファンで有り続けようと思ってます。

つづく

2007年11月 3日 (土)

三本松吾割安からの卒業

三本松吾割安からの卒業
思い返して見ても三本松時代は強烈に日々の事が脳裏に焼き付いてます。
自殺しちゃいましたが「ユッキョ」に「トッショ」この二人は私の前に働いてたモトムの仲間で、私が入った頃はモトムの影が店に残っていましたので、中々、打ち解けた話しはできませんでした。
しかし、時がたつに連れ仲間になり、かたい絆が出来上がり、いつも連絡を取り合い、私の青春を一緒に過ごしたのは、まぎれもなくユッキョとトッショです。
若かったですから、話す事と言ったら恋愛に付いてが一番だったのですが、ユッキョだけは別で酒があれば幸せって感じでしたから、一緒に酒を飲む機会が増えてしまい、この頃が私のアルコールとの付き合いの始まりです。
バレンタインなんかは自慢ですが、ダンボール箱が2〜3個は一杯に成るほど毎年チョコレートをもらってましたから、いかにモテたかがお分かり頂けると思いますし、とても幸せな気分になったものです。ちなみにですが、近所の幼稚園の子からおばあちゃんまでチョコを持って来る方は幅広かったですけど!!

三本松時代、心を入れ替えてからは、自分で言うのも変ですが人気者に変身を遂げてました。そんなハチャメチャな毎日を送ってましたが、三本松に行って、もう少しで4年目になりかけた頃に、年齢も23才になってて、真剣に自分の将来を考えるようになり、悩み出したのです。ばあちゃんと爺ちゃんの面倒を見るのは宿命でしたから、満濃に帰って仕事を探すにしても、どのような未来になるか、検討も付きませんでしたし、仕事にしても何を基準にして選んだら良いか、本当に悩みました。

ひとつだけ出してた答えは「三本松吾割安を辞めなければならない」でした。何故なら、当時は夜の仕事で水商売(酒を出してるし、屋台の延長の店)では結婚をするのは、かなり難しい話しでしたからなんです。三本松に行ってから何度か恋愛をしましたが、親に付き合ってるのがバレると、必ず反対をされ、付き合えなくなるのが当たり前でした。
今のように携帯なんか有りませんでしたから、時間を決めて電話をすると、たまに、親が電話口にでたら、私の存在がわかり、「誰か?」を確認されると恋愛終了です。その後は連絡が取れなくなる事が続き、諦めるのが、いつものパターンなんでした。
こんな事が繰り返し起こると弱気に成りますし、夜の仕事を続けるにしても覚悟を決めな駄目やなと思いました。
辞めてからの方向性は決める事が出来てないまま、一年後に辞めようと決心して、親方に報告しました。
辞めるに当たって考えたのは、家族のように大事にされ、この親方のためなら命がけで付いて行けると思ってましたから、一ヶ月や二ヶ月前に辞める事を伝えるのは失礼だと思ったからです!!
辞める話しをしてから半年が過ぎた年末に、一年より少し早くなったのですが「年明けの二月末で辞める」と伝えて、了解をもらい、最後の二ヶ月を思いっきり働きました。楽しかったですよ、ほんと、思い残す事はいっぱい有りましたし不安だらけだったのですが、未来に向かうと言うか!?わくわくする気持の方が勝ってましたから充実してたように思います。

最終日が近づくにつれ、ある考えが浮かんできました、それは、「一年間はゆっくり将来に付いて考えよう」で、一年後の3月1日にやってる仕事を自分の一生の仕事にしようと決意したのです。
結果的に翌年の3月1日に高松で「吾割安」を開店しましたから、結果オーライですよね。
写真は今の車の前に乗ってたベンツのステーションワゴンC‐230のメーターパネルで走行が20万kmになった瞬間です。私が16万kmまで乗ってから部下にお願いして乗ってもらってまして、このベンツも、ここまで走行すれば本望だとは思いませんか!!
まだまだ丈夫なので乗り続けるそうです。
やりますな〜
                                      つづく

2007年10月26日 (金)

再々就職

再々就職
すったもんだの末に昭和53年の9月から三本松吾割安で、お世話に成る事にしたのですが、寝泊まりしてる所は相変わらず店の二階で亡くなった桑島モトムが住んでた頃は窓ガラスも入ってなかったらしいのですが、私の時はかろうじて窓ガラスは入ってましたから倉庫の中で回りは食材や食器なとの山とは言え快適な毎日を送ってました。
何より仕事で疲れるし、翌日に声が出ない事が日常茶飯事ですから、いかに没頭してたかが良くお分かりだと思います。
メリヤスやパンスト、ランジェリーなどを売ってるよりも自分に合ってましたから、4年7ヶ月もの間を働きましたし、今も同じ仕事をしてるのですから本当に天職だったのでしょうね!!
9月末には二階の倉庫での暮らしから家賃3500円のアパートに引っ越したのですがトイレは昔風で共同、木造の二階建ての二階でひと部屋でしたが生活には不自由なく送れたように覚えてます。
三本松吾割安での最初の給料は11万で保険も税金も引かれないので丸進時代に比べると約二倍になってました。
今の時代に換算すると30万円以上の給料をもらってたのと同じぐらいで、ラーメンが150円だったと思うので古き良き時代でした。

思い出が有りすぎて、書けないのですが、とにかく無茶苦茶に楽しくて、すべての事に夢中になった時期で、人生を生きて行く上で仕事でも人間形成でも、あらゆる事を学だと思います。
三本松吾割安を出てから26年になりますが、今でも夢に出て来て、必ず働いてて最近は今の立場で居ながら週末だけ三本松吾割安で働くと言う夢なんです。
私は三本松吾割安から抜け出す事は出来ないのでしょうね!!

何ヶ月ぶりにブログを書きまくってますが、24日から東京〜甲府、甲府から塩尻経由で名古屋、名古屋〜広島と移動して、今日の昼に広島港から高速艇(マリンジェット、写真)で松山観光港に向かい、今は松山発最終便の高松行きバスの中なんです。
移動に時間がかかるものですから携帯でブログを書きまくった次第です。
笑っちゃいますね、でも色々と昔を思い出して参考になりましたよ。
では、また〜

2007年10月25日 (木)

再就職

当てもなく丸進を辞める事にしたものの、内心「どうしよう!?」と葛藤してたところに取引先の専務から「うちに来ないか?」と声を掛けていただき、何も決めてなかったですから、何となく行こうかなと思って会社の先輩に相談したら「止めとけ」と反対されました。その先輩は「お前は、あの店では腐ってしまう」と言うのです。
そして、別のところを紹介してやると言われ、紹介先はどこかを尋ねると「ビッグジョン高松支社」や〜 これからはメーカーが元気やでの一言が迷ってた私をその気にさせて、取引先の専務には断わりの挨拶をして、ビッグジョンの面接を受け、ほとんど就職は決まってましたから顔合わせ的な感じの面接だったように記憶してます。
面接の中で話題はひとつで、いつから出勤出来るかの話しで、7月末で丸進を辞めるのだったら、8月1日から来なさいと言われのですが、私は9月1日を主張してビッグジョン側は早く来て欲しいようでしたが、ここのところが私らしく、一歩も引かず、9月1日に決めたのでした。
結果的には、この一ヶ月の攻防が私の人生を決定したと思います。
一ヶ月にこだわった訳は、ただ遊びたかっただけです。
10才ぐらいから働いてましたから働く事に対しては余裕があったのですし、少しの不安はありましたが自分を見失う事はなかったからでした。
三本松吾割安の桑島モトムの事故死で三本松吾割安にバイトで入ったのが、たしか、8月の10日過ぎでした。あまりにも三本松吾割安での仕事が自分に合ってましたから、もし、ビッグジョンに8月1日から行ってたら三本松吾割安ではバイトはやってないでしょう。人の人生って、ちょっとした事で変わって行くのを体感した出来事でした。
この時期の体験は、今の私の原点になってて、社員からの相談や経営に悩んだ時は必ず思い起こして、あの頃に帰ると必ず答えが出て来るのです。

結局、ビッグジョンには3日しか行かず、会社の三階にある寮に布団を置いたままでビッグジョン再就職は終わってしまい、三本松吾割安への再々就職が決まった事で、自分の人生を賭けれる仕事に出会ったのです。
馬鹿でしょう!

運動会

このところのブログは思い出をたどりながら書いてましたが、今回は10月22日に行なった「第一回 突飛な運動会」の報告を記しておきます。
そもそも何で運動会かと言うと、我社の三宮のひら井の店長&支配人が会議の終了間際に「野球大会がしたいのですが」ってな感じで話しだしたので、経緯を話しみろと言うと、会議に参加してた者達で「野球が出来たら楽しいだろうな〜」と話し合ったようで、なら、「TOPPIさんに話してみよう」と言う事になり、恐る恐る話し出したみたいでした。
一年前からの飲酒運転の取締り強化で売上も落ち込みっぱなしだし、店舗も増えて、社内の親睦も出来てなかったので「それ、やろうぜ〜全店休みにしてやろう」で会議の参加者に確認したら、当たり前ですが反対はゼロで決まり。
「お前、実行委員長な〜」で、役割分担も完了。
ついでに、参加しやすいように社員は有給、バイトは二時間の時給発生する事にして、運動会はソフトボールにする事で準備スタートになり、当日を迎えたのです。
参加者は100名にもおよび、店舗別ではなくランダムに6チームを作り、二つのブロックにわけ、1位同士が決勝を行なう試合方法にして、私は勝手にどのチームにでも参加できると言う事になってたのです。
私も何日も前から楽しみで楽しみで、トレーニングをしながら、ヒットはこんな風にとか、外野の頭の上を超えるヒットは何本とか、そらもう子供の頃の遠足前日ですよ!!しかし、現実はそう甘く有りませんでした。

Toppi3

ヒットはエラー気味のヒットで打球が上がったと思ったらピッチャーフライばかりで、ガックリ!
でも、本当、楽しかったですし、大声を出してのヤジの連発、多分と言うか間違いなく一番楽しんだのは私だったと思います。
社員の為の運動会でなく、私の為の運動会だったみたいでした。
すみません。

今日で運動会が終わって4日目ですが、オシリは痛いし、歩く事もままならず、靴下やズボンすら、まだ、はけません。

我社のみんな、ありがとう

会社を辞めた

会社を辞めた
入社式の失敗や二年目に後輩達と荷造りや配達など雑用の仕事をする羽目になったりと、馬鹿な毎日を送ってた私ですが、この頃の経験はとても有意義な経験でした。
例えば、フェアレディSR311に乗ってる先輩が居て、後に私もSR311を15年ほど乗ることになるのですが、この先輩との出会いで、暴走族の車じゃなくて、愛する車って何か?! 車の楽しさって何だろうを教わったのです。
フェアレディに乗ってる仲間が何人か居て、毎日のように仲間が集まってはフェアレディの話しを夜中まで話すのが当たり前で、時には何日も掛けてツーリングに出掛けたりと、それまでに私が知ってた車好きとは、あきらかに違ってました。
私も当然、フェアレディが欲しいと思うようになるのですが、月給65000円ぐらいで、フェアレディは安くて150万、程度の良いのになると200万以上するのですから、給料の40倍もする車は買えっこありません。
だから、5月のゴールデンウィークに行なうツーリング旅行に助手席に乗っけてもらい、毎年、付いて行きました。
北九州から中部地方の長野、静岡まで車の旅を経験したので、当時を思い出すたびに楽しかったし、フェアレディと言う憧れもあったので、20才前後の暴走族精神から大人の仲間の付き合いや本当の楽しさを発見したように思います。

仲間を見つけることが出来たのですが、仕事は中々上手く行きませんでした。
入社して直ぐの仕事は高松市内の取引先へのルートセールスと新人なので雑用なんです、当たり前ですけど。
最初の雑用は三越から返品されたランジェリーの仕分けでした。四畳半ぐらいの部屋で朝から晩まで山のようなブラジャーやショーツとの格闘をしてました。
暴走族がランジェリーと戦うとは思っても見ませんでした。

そんな仕事を一年半近く続けたのでしたが、色々と考えて見ても自分が一生を掛けてやる仕事とは思えなくて、満濃には爺ちゃんやばあちゃんが居てるし、私を必死で育ててもらったのに自分が命を掛けることが出来ないのでは続けて行けてないと辞める決心をして、会社に報告を済ませ、この頃は香川県の東を担当してたので、お世話になった取引先にも挨拶を済ませて、最後のルートセールスを終えて、今でも覚えていますが、夜の8時過ぎに会社に帰って、駐車場にセールス用の車を入れて事務所で日報を書いて、事務所のスタッフは皆さん帰社されてて社内には常務しか残ってなかったので、その日報を常務のところに持って行き、最後の勤務だったので挨拶も合わせてしたのですが、驚くことに常務は一言も言わずに私を無視してるではありませんか!!、ハチャメチャでしたが、会社の為に頑張りましたし、自分にとっては楽しくて最高の会社でしたから、この常務の態度は理解できず、涙を流しながら会社を出たのを覚えています。
この経験が今の私の原点です。
誰でも働いてる時間が長かろが短かかろうが関係なく一生懸命に働いてるものです。
辞めると言う事は何か他人には分からない理由があるのであって、会社はそこを理解しなくてはなりません。
だから、辞めやすい会社作り、辞める奴に優しい会社作りをしてるのです。

写真は徳島の紺屋町にある「割烹 とと喝」です。
魚料理が中心で、特に名物「鯛めし」が最高に美味いし、親父の手作り干物は絶品でした。 ちなみに「鯛めし」は40分ほど時間が必要ですから早めに注文を

追伸
後に常務も丸進を辞められたそうです。

就職

就職
長らくご無沙汰してまして申し訳ありません。
身体的にも頭の中的にもバタバタでブログに取り組めなかったのです。
しかしながら、少しではありますが落ち着いて来ましたので、また書き始めますから宜しくお願いします。

色々とありながらも就職は高松の株式会社丸進(繊維問屋)に決まり、卒業出来ないままなので、学校の担任と生活指導の先生に確認してみると、帰って来た返事が「とりあえず行っとけ」だったので、卒業した仲間達と遊んでばかりの毎日を送ってた、ある日、株式会社丸進から呼び出しの通知が来てたので、何だろう!!と思いながら、前日は鳴門まで走り(三菱のギャランGTO)に行こうと思ってたので、朝まで遊んで、「そのまま丸進に行けばいいや!」ぐらいの軽い気持でいましたから始末が悪いのです。呑気と言うかアホですよ。
九時の集合だったように記憶してるのですが、行って見ると、玄関付近には紅白の幕は掛ってるし、同期の奴らはスーツか学生服を着てるしで、ビックリ!!
私はと言うと暴走帰りで髪はパーマがかかってて長髪のボサボサ、Gパンにヨレヨレのシャツそれにジャッケトは何とも言えぬ派手な物で、その上、寝てない、ヒゲは伸びっぱなし、そんな姿で入社式に挑んだのですから大変。
満濃に帰って着替える時間もないし、ちなみに高松から満濃を往復したら二時間弱は掛ります。
同期の新入社員と一緒に支持されるままに会場に入ると、先輩社員達が待ち構えてるではありませんか、拍手で向かえられ、ふて腐れて座ってると、名前を呼ばれ、「はい」と返事をするのがやっとでした。
悪夢の入社式も終わり、翌日からは髪も切り、スーツに身を包み、態度は前日のそれとは180度は違う好青年ですから、会社は二度目のビックリで、同期の連中が倉庫で荷造りをしてるのに入社から一ヶ月が過ぎた頃には高松市内の営業に出てましたから、その変貌ぶりが分かっていただけるかと思います!
しかし、もともとの中身が変わってないのですから信頼される訳ありません。
仕事の成績は残すのですが例の態度が駄目なんです。結局、一年後には同期がスーツで営業に出かける姿を一年後輩の新入社員と一緒に倉庫の作業をしながら見送ってました。
今、思い返して見ても素質は持ってるのに生かしてないと言うか生意気な馬鹿でした。
恥ずかしいですね。
ただ、この丸進時代が現在の私に影響をしてますし、素晴らしい経験をさせていただきましたから丸進は私の仕事上の古里なんです。
当時の中村会長が言ってた言葉に「人間、ど天井になったらあかん。ワシは昔、伊予の郡中? 今の伊予市まで自転車にやなぎゴウリを積んでエビのようになって仕事をしてた」と毎日のように話されてました。「ど天井になったあかん」は、いつも天井を高く持て、出来たと思ったら駄目だと言う意味と思います。
この言葉は丸進を一年半で辞めましたけれども、それから今日まで私を支えてくれてます。
会長、ありがとうございました!!

今回の紹介の店は、坂出市の旧国道11号線沿いで、坂出駅に向かう道と旧国道11号線の交差点から西に100㍍ほど歩いて商店街の入口辺りにある「こめや」です。
もともと米問屋をされてて、その米問屋の一部を改装して飲食店にしてるのです。
今でも米屋は隣で営業なさってますし、昔ながらの重厚な建物の中で食事が出来て最高でしたよ!
ちなみに定休日は日曜日

是非、一度寄って見ては!

2007年9月19日 (水)

高校時代Ⅲ

高校時代Ⅲ
何と言っても「ヤバイ」と思ったのは、同級生の緊急入院と卒業延期(高校時代Ⅰで少し書きましたが)になった事ですね。
三年生の夏前だったと覚えているですが、午前中の授業には出た事のなかった私が、この日は登校してて、一時間目の体育の授業中に事故が起こったのです。
この事故で同級生は緊急入院してしまい、翌日からの授業は始まらないし、緊急輸血が必要との事で、クラス全員が輸血の為に病院に行ったりと、とんでもない騒ぎになり、警察からの事情聴取が体育の授業に出てた全員に対し始まり、その結果、近くに居た私を含め10人程が高松南署に呼ばれ、数日間、毎日朝九時から昼まで取り調べを受けて、なぜか、昼の休憩中は柔道着に着替えて稽古を付けられて、休憩が終わると丼飯を食わされて、また取り調べが夕方五時頃まであって、学校のバスで尽誠学園まで帰る日々が続いたのです。
学校に帰って取り調べを受けた仲間に聞いたら、稽古を付けられたのは数人で、これは「俺が疑われてる」と直感しました。
しかしですよ、稽古の後で丼飯ですよ!!取り調べ官は明らかに柔道の有段者です、休憩の一時間中、投げられっぱなしですから、丼飯が後からは理解出来ましたけど、今では考えられない事ですよ。ほんと。
家に帰って、ばあちゃんに報告したら「世の中、分かん事がいっぱいや。何事も経験や」で終わりです。
「お前はやって無いのだろ」と聞かれたから「やって無い」と答えたら「そうか」で、その後、この話題には一切ばあちゃんから触れる事は有りませんでした。
今、思っても大変な事件で、この後の事は書けませけど、当時の新聞には乗りましたし、私の人生を左右する出来事でした。

何度も書いてますが、卒業延期にはビックリしました。
卒業式の予行演習の日に兄弟のような友達と二人で、同級生を愛車に乗せて、学校に行ったのです。
気分はもう社会人で、最後の御勤め気分で、同級生の家を回って、二人それぞれの愛車を満タンにして、学校近くの病院(吉田病院)の駐車場に止めて、学校の教室に入り、アナウンスの後、予行演習の体育館に入って、久々の仲間と喋ってたら、私の愛車と仲間の愛車のナンバーが呼ばれてるではありませんか、「二人は前に出てこい、わかってるぞ」と言われたので、出て行ったら、即刻、指導部に連行され「直ぐに帰れ、呼び出しが有るまで自宅待機」の命令が下され、同級生達が体育館で卒業式の予行演習をしてるのを横目に学校を後にしたのです。

結局の所は愛車を止めた吉田病院の医院長が尽誠学園の初期の卒業生で、学校のPTAにも入ってる重鎮で、間抜けとしか言い様のない馬鹿でした。
卒業予行を体育館の外から見る風景は、昔話しのアリtoキリギリスを地で行ってようで、今でも鮮明に覚えてます。
そんな分けで呼び出しがあったのは夏になってのです。
最近、卒業延期になった友人に会ったら「俺も一緒だったやないか」と言われ、詳しく書きました。

写真は私が商売を始めた時に仕入れをしてた鶏肉屋さんです。
7年ぐらい前に我社が危機的な状況に直面して、仕入れ原価の見直しをせざるを得なくなり、この鶏肉屋さんとの取引を切ったのです。
この鶏肉屋さんはおばちゃん一人でやってる、昔ながらの店で、私の事を息子のように思ってもらってて、おじさんが亡くなった時には葬儀にも参列して、以後、法事やおばちゃんの個人的な相談まで聞くようになってたのです。

取引きが無くなってからも時々店を覗いてたのですが最近は寄って無くて、気になってたので、一週間前に寄って見ると、写真のようにシャッターが降りてたので、近所の方に聞いて見たところ、「五年ほど前に亡くなられた」と告げられ、ショックで暫くは店の前から動く事が出来ませんでした。
おばちゃんは私のばあちゃんに良く似てて、豪快な性格の持ち主だったのに居なくなったのは寂しい限りです。
おばちゃん、ごめんなさい

2007年9月 4日 (火)

高校時代Ⅱ

高校時代Ⅱ
高校時代を振り返る事なんかは、40才代に突入してからは殆んど無かったのだが、ブログを書くようになり、どのような内容にしようかと思案を巡らせる内に、たどり着いたのが昔話しでしたので、遥か昔の思い出に浸ってるしだいです

子供の頃からの思いでは沢山ある中、私にとっても高校時代は特に強烈な思い出として残っています。

久々に書き始めたブログですので、前に書いた「高校時代Ⅰ」と重なら無いように書きますけど、重なってたら済みません。
高校生活のほとんどをアルバイトに明け暮れた私ですが、この時期のアルバイトが私の人生を決めたように思いますし、決めたのは間違いありません。
アルバイトの先も十数件にのぼり、酒屋が裏の倉庫でうどんの製麺所もやってる酒屋とか、肉屋、魚屋、食堂、旅館、衣料品店、土木作業員、清掃社(バキュームカーの乗務員)、新聞配達、ブロイラー加工場、冷蔵倉庫会社とか、頼まれたら何でもやってましたから、学校に行く時間なんて何処にありません、その上、仲間と集まっては、バイクで走り回ったり、スイカ畑、ミカン畑などの襲撃に、敵対するグループとの喧嘩に恋愛もしてたんですから、今、考えても驚異的な元気力だったと思います。
時々思い出したように学校に行ってのですが、行って見ると、すでに、その日の授業は終わってたことは度々で、そこで考えた私は職員室に行って、出席簿の書き換えをして、その日を出席したようにしたりと考え着く限りの要領をこなしてました。
不思議とこの書き換えがバレなかったのです。
要領で生きてたような私の高校時代の最高傑作は三種類の奨学金を手にしてた事です。
入学して直ぐに入院した事で、学校からは病気がちな生徒と言うレッテルを張られてましたから、私にとっては好都合で、休んでも、また学校にお願いに行っても信用があったのが奨学金取得に大いに力になったと思います。
奨学金取得にはハードルがあるのは当たり前ですので、どうやってクリアするかを考えました。
アルバイトばかりやってて勉強なんかやって無いのですから正面から応募しても、通るはずがありません、何かいい手は無いかと考えたあげく出て来たアイデアは「担当する先生との関係やな」と思い、関係構築に走り回った結果、審査科目や試験内容など、かなりの情報を入手しましたから、結果は明らかで、すべて適応の知らせも頂き、あきたらない私は四つ目の奨学金にも挑戦して見事に合格しましたが、「平井、君より苦学してる奴が居てるので辞退してくれ」と言われたので、泣く泣く放棄しました。
しかし、三つの奨学金で三年間の授業料は必要ありませんでしたし、たしか月に3000円ぐらいは浮いてましたから充分な奨学金だったと思います。
色々行ったアルバイトの中で、衣料品店のアルバイトがきっかけで就職もしましたし、今の仕事の原点は西本食堂のアルバイトが起源になってますから、高校時代の生き方が現在を作り出してるのは確かです。
この西本食堂のおばちゃんは豪快女将で、ある日、喧嘩してからバイトに入ったら「誰に殺られたんや」と私の事を気づかってくれた事は日常茶飯事で、親が居なかった私にとって母親の役割を担ってもらったと今でも思ってます。
そんな西本食堂も今は無くなり、琴平に帰った時には食堂があった辺りを歩いては昔の思い出に浸ってます。
何度も言いますが、最高の高校選択と仲間達でした。お世話になった方々、ありがとうございました。

今日の写真の店は東京都内の大井町にある中華料理店「萬来園ばんらいえん」でして、先月、仲間4人と食事会をしたところ、食べた品数か13品、払った代金86000円と言ったぐわいで、食うのも食ったし、払った代金もたいしたもんでした。
写真は高地に咲くユリの花の新花を炒めた一品で、何とも言えぬ味わいでした。全ての料理がカウンター越しに出来上がるところが見る事が出来て、オヤジが料理を作り、セガレが下ごしらえをやり、おかあさんが飲み物やその他の仕事をする完璧な家族運営の料理店で、カウンター13席、何十年もの間、リニューアルもせずに営業してきた臭いが店内に満ちあふれてて、一見、単なる定食屋に見えるのにも関わらず名店なんです。
是非一度、お金を持って行って見ては!

少し余裕もできましたから、また書き始めますので、ご愛読の程、宜しくお願いします。

2007年8月10日 (金)

高校時代

高校時代
高校3生の2学期に入ると進路指導が始まり、当然、勉強なんかまったくしてなかった私は進路を決めるのにも選択肢はほとんどありませんでしたので、担任の先生との話し合いも簡単なものでした。
普通は親が参加して3人で話すと思うのですが、ばあちゃんは「私は親でないから行かない」と言って参加しないし、先生も期待してないし、自分も期待もないから、あっさりと決めました。
家に金がなかったから公立も考えましたが、入学出来そうな高校では、人になめられると考えた私は、落ちても恥ずかしくて「平井、頑張ってるやない」と思って貰えそうな公立高校を受験したのです。気持は、学費は高いけど、ばあちゃんに頼らなくても自分で何とかなると思ってましたしから、とにかく俺が行く高校は「尽誠学園」と決めて、「後は遊んでよ」が当時の私です。
年も変わって、いよいよ受験シーズンが始まり。最初に尽誠学園の入試があって、続いて公立高校の入試が始まり、ハナッから落ちる予定の受験日が近づいて来た頃に体調が悪くなり始め、かかり付けの医者に診察に行って見ると「風邪やな〜梅干しでも食って寝てたら治るわ」と言われ、寝ても寝ても良くならない間に、公立高校の受験日になり、たしか、初日は五教科の試験で二日目は面接だったと思うのですが、詳しくは覚えてません。
試験当日は発熱と飯を食えない身体で、答案用紙に名前を書くのがやっとで、後は会場の机で寝てばかりでした。
そんなこんなで試験も終わり、3月末が来ても体調は良くならず、医者に行っても相変わらず「風邪」やな〜で、薬を飲んでも治りそうな気配はまったくなかったと記憶してます。
何を食っても戻すし、熱が下がらない生活が一ヶ月も続いてる内に尽誠学園の入学式の日が来ても、変わらずの熱と吐き気で入学式は何とかこなし、あまりに治らないので病院を変えようと思い、新たな病院に入学式の帰りに行って見ると、私の顔を先生が見た瞬間に「ベッドは空いてるか」と看護婦(昔の呼び名)に問いかけ、10分後には点滴を射たれ、30分後には病室が用意され、緊急入院をしてました。急性肝炎で顔は黄色く黄疸が出てて、目の白玉も黄色になってたらしいのです。2〜3日遅れてたら死んでたらしく、それから3ヶ月間の入院生活が始まり、退院しのは7月に入ってました。
学校に復帰してからは、病気になって事を理由に休みと遅刻、早退をやり続け、アルバイトに明け暮れてましたから、当時の高校生としては、破格の収入を得てたと思います。

学校にも行かずにアルバイトをやって収入を得たら、次は何かを買おうと言う事になる訳で、行き着く先はバイクですね。650ccのバイクを仲間の中では誰よりも早く買って走り回ってましたので、このあたりからが「人の物は自分の物」と言う勘違いが始まったように思います。
結局、高校三年間で半分ぐらいしか学校には行きませんでしたが、尽誠学園に行った事で、今の私があると思うし、かなりの体験もしましたからベストな高校生活でした。
ちなみに尽誠学園の卒業は8月に私一人が職員室で担任だった先生から卒業証書を渡されたのでした。

学ぶと言う事から程遠い生活を送ってた私が、今では息子に「勉強せなあかん」と言ったり、会社の会議を主催して、社員や業界の未来を想像して運営してますし、スポーツなんかは「疲れるだけや!」って言ってましたのに、今ではジョギングをして、汗を流してるのですから人生って不思議なもんですね!

写真は私のジョギングコースから見る山です。左側の掘ってる所は庵治石の採掘してる山で、右側の小高い山はお経呂さんで有名な八十八寺の第八十五番八栗寺がある五剣山です。
この山のふもとには、イサムノグチの庭園美術館もあって文化的にも貴重な地域です。
是非一度、時間があれば散策して見て下さい。

2007年6月11日 (月)

まんのう町


最近、かなり忙しく走り回ってたから、まんのうに帰ってなかったで帰ってみました。まんのう町は平成の大合併で旧満濃町、仲南町、琴南町の三町が一緒になって出来た人口2万人強の町です。私は旧満濃町炭所東の出身で、尽誠学園を卒業するまで暮らしました。爺ちゃんと婆ちゃんの3人暮らしで、爺ちゃんは口数も少なくて、毎日毎日、黙々と働く人で農機具の手入れから家の中の掃除は毎日するし、手先が起用で大工仕事までこなす大変な人でした。辛いとか苦しいとか愚痴など聞いたこと有りませんでした。
一方、婆ちゃんは豪快で村や親戚の冠婚葬祭は一人で仕切ってて。負けず嫌いで、時には近所のおばちゃんと意見が合わずに10年近く口もきかなかった事もありました、小さな村の中ですから恐るべき事です。それと最近、映画やテレビで放送された、島田洋七の「がばいばあちゃん」にそっくりで、あの本を読むと懐かしいやら可笑しいやらで感動しました。そんな爺ちゃんと婆ちゃんに育てられた私ですから、性格なんかは想像が付くと思います。
爺ちゃん婆ちゃんとおふくろの墓に参り、実家には誰も住んでなく、会社の倉庫にしてるところに少し寄って、徳島の新店で使えそうな資材のチェックして、昨年もブログで紹介した友人宅を回ってる途中で「首切り峠」に差し掛かって「これは紹介せねば」と思い、写真に収めました。ここは完璧なまんのう町の観光地です。ご存知ない方は、是非ドライブがてら行って下さい。宜しく。
まんのう町はいい町ですよ

2007年4月 7日 (土)


京都のおばちゃん

何年ぶりに会えたか覚えて無いぐらい会ってなかったので嬉しくて涙が出そうになりました、時々は買い物がてら店には寄ってたんですけど居なかったから会えなかったんです。

前にも書きましたが私が創業する時にアドバイスしてもらったおじいちゃんの奥さん。おじいちゃんはが亡くなって15年になるし、会えてなかったから心配してたけど元気で工房の手伝いをされてたので安心しました。
手を握りあって昔話しをしたりで久々に心安らぐ時間を過ごしました。
ありがとう おばちゃん

2006年12月26日 (火)

追伸 きの

追伸

きのう書ききれてなかったので少々書きたすと12月23日の原点仲間の忘年会に3人の名前なかったので写真と一緒に紹介しておこう、手前から松下、平井(彼は親戚)石丸です。老けたものだ。

松下、石丸は30数年ぶりの再会で特に松下は思い出深い奴なので少し紹介しときます。 10歳ぐらいから鳩を飼うようになって、中学になるとレースに出すことが生き甲斐でアルバイトしては鳩舎を増築したり、新しい種鳩を買いあさり、毎日毎日、鳩舎のなかで鳩を見つめてました。そん時、鳩がきっかけで松下と仲良くなり、お互いに家が貧乏だったので気持が通じあったと記憶してます。 ちなみに鳩のレースは一回も入賞すらしませんでした。ただ最長の距離は700kmで秋田から飛ばした翌日に帰ってきました。 今でも時々実家で鳩が帰ってくるかと空を見てる夢をみます。松下との再会は自分自身を見つめ直す良いきっかけなったと思います。 ホントにホント仲間っていいですね。

12月26日 午前2時10分
本部事務所にて
(事務所にネコが二人居て僕が嫌いなのに前で寝てます)

2006年12月25日 (月)

お久しぶり

お久しぶりの登場です。
元々学問は苦手で集中するのはバイクやクルマとかで小学校の5年生から始めた新聞配達などのアルバイトはすこぶる集中した覚えはあるのですが、文章を書いた記憶はほとんどありませんから、再登場に時間が掛った理由はそんなとこです。まぁ 知人友人の皆さま許して下さい、そして、このブログで知り合った皆さん勘弁してやって下さい。
では前回の続きに入りましょう。 飲食業の師匠、心の師匠のことは書きましが、経営の師匠はと言うと久本酒店の先代社長です。僕が独立を決めて酒類の取引は久本酒店と決めてたので、取引を依頼に行った時に始めてお会いして色々と商売の話してもらい、以後亡くなられる一週間前の病室からの電話まで付き合わせていただきました。 たしかクリスマス前の寒い日が最後の電話だったと記憶してます。もしかしては無いのですが元気でいらしたら、僕の商売の仕方はかなり変わってたかもと時々考えることがあります。
仕事、心、経営と来たら次は原点の友人の話しかな、 06年の忘年会を23日に吾割食堂観音寺店で悪友(写真の連中、手前から平林、安藤、亀田)あと3人いたので僕を入れて7人で6時間近く飲んだのですが、彼らが僕の原点です。クルマにバイクにアルバイト、更には少しヤバイ事(30年以上前だから)をやりながら人間関係の仕組みや個性の出し方を覚えて、僕が独立をするまでの支えでした。ただ独立した後は店は繁盛するし、店舗を大きくしたら益々流行って儲かり出すと馬鹿な僕は、ぞくに言う天狗になって行き彼らとの付き合いが無くなり、以後20数年間、安藤(アンニャン)以外とは連絡を取ってませんでした。 ホント馬鹿ですは。 ところが神の声と言うか、高松市内で岡田敏彦にバッタリ会って、そこから話しがトントン拍子で進み、岡田敏彦が我が平井料理システムに入社することになったのです。岡田は大阪で衣料品関係の仕事をしてたのですが、奥さんの両親が高齢なので香川に帰りたいと考えてたらしく。飲食は
始めてだけど、やって見ると言うので来てもらいました、今は吾割食堂観音寺店で働いてもらって、日々悪戦苦闘をしてるみたいです。 岡田敏彦の出会いで昔の仲間と飲む事になり3年前から年に2〜3回、集まれる者が集まって飲んでます。今回は参加してなかったのですが新名、黒井、高木、豊田と悪友達がいて、仲間がいる喜びに浸ってるのと何があっても大丈夫と言う思いが今の僕を 支えてます。
まだまだ書いたい修行時代から独立間もないころのことがありますが、今日はこのぐらいにしときす。

06年12月25日 午前2時過ぎ本部事務所にて。

メリークリスマス

2006年10月 3日 (火)

吾割安

えー只今、吾割安は修繕のためお休みをいたしております。現在の場所に店を構えてから大きな改装は3度目になります。随分古くなってしまいましたがまだまだ会社の大黒柱です。僕がまだ店に入っていた頃、15年以上前ですが、厨房に大きなかまどがありました。ご存知のかたはいらっしゃるでしょうか・・・店内にも屋台を作ったりと面白さを工夫したものです。僕が店に入らなくなってから店長はいま10代目です。スタッフもお客様も世代が変わり、昔、常連だった若者の子供の世代が来るようになってきています。歴史だなぁ〜と撤収作業の始まった吾割を見てそんなことを思った今日でした。

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